四国の本願寺直属寺院

四州教区の概要

浄土真宗本願寺派(西本願寺)では、全国で10,000ヶ寺余りのお寺と30,000人余りの僧侶が所属しています。また、全国を32の区域に分けて、その呼び方を「教区」あるいは「特区」と表現しています。
「四州教区」は、その32の教区・特区の1つで、徳島県、香川県、愛媛県及び高知県の4県で構成されています。それを、21の組(そ)に分けて活動しており、293ヶ寺の寺院が所属しています。
四州教区教務所は本願寺塩屋別院の中にあり、本山本願寺(西本願寺)とお寺とのパイプ役や、教区における教学の振興及び伝道教化の推進を図る役割を担っています。また、教区内の寺院や門信徒と協力して様々な活動をしています。

本願寺塩屋別院

〒763-0065 
香川県丸亀市塩屋町4-6-1
TEL.0877-22-3016
FAX.0877-23-8197

本願寺塩屋別院沿革

 本願寺塩屋別院の起源は、江戸時代の慶長20(1615)年に播州赤穂(現 兵庫県赤穂市)の教法寺と門徒30戸が塩田開墾のため、集団移住したのが始まりである。当初は教法寺道場と称し、寛永20(1643)年讃州那珂郡塩屋村総道場教法寺と称する寺号を賜わり、以来、念仏者の中心道場となっていった。

 当時の敷地は東西二十五間、南北三十間(750坪)本堂は東向き七間四面、境内の地上げに必要な築石は丸亀城築城の残石で補ったと言われている。

 享保19(1734)年に本願寺塩屋別院となり、延享2(1745)年面積を六段六畝十三歩(1993坪)に拡大し、現在の本堂の建設に入り、それまでの本堂を対面所とした。

 現在の本堂は、寛延2(1749)年に起工し、上棟は安永(1775)年でおよそ30年の歳月を要した。さらに完工までに相当の年月を要し、大工棟梁も3人目にして完成したと言い伝えられている。

 また本堂完工後、書院・奥座敷・学寮・講堂・表門・鐘楼・表納所・経堂・土蔵・輪番所・講中詰所・集会所・茶室等が順次建てられ、全ての完成まで50年余りを要したと推測される。

 平成5年より平成大修復を策定実施し、平成7年に本堂屋根修復・大書院の修復を完了し、平成9年には研修会館を新築した。

本願寺塩屋別院におけるドイツ兵俘虜収容所

 大正3(1914)年に勃発した第一次世界大戦。イギリスと交戦中のドイツに対して、日本は同盟関係にあったイギリスとともに中国領土内でドイツと戦火を交えた。数か月間の攻防が続いた後、ドイツ軍は最後の砦となっていた青島(チンタオ)が陥落し、降伏した。その際、捕虜として捕えられたドイツ兵4,627人が、日本にあった12か所(四国には松山、徳島、丸亀の3か所)の俘虜収容所に送られた。

 同年11月16日、多度津港へ入港後、丸亀俘虜収容所(本願寺塩屋別院)に収容された俘虜324人は2年5か月もの長い間、丸亀で俘虜生活を送ることとなる。その間の塩屋別院門信徒との交流・俘虜たちの暮らしぶり等、当時の貴重な写真も残っている。

 当時の俘虜の生活は、個人個人を尊重した収容所運営を図っており、運動する事やビールを飲むこと等を許可する運営が行われていた。

 やがて彼らの能力を活かす機会も増え始めソーセージを作ったり技術者として学校等で技能の指導を行ったりしていた。

 また、俘虜のエンゲルを中心に楽団を結成し、26回もの演奏会を開催している。その中で、男性合唱団も2団体結成され「収容所合唱団」として独自のコンサートも開催し、活発に活動していた。

彼らの音楽活動は、丸亀の収容所から始まり、その後、徳島の板東俘虜収容所へ移り、そこでも音楽活動が盛んになった。

本願寺塩屋別院
高松会館

〒760-0053 香川県高松市東田町6-1

本願寺塩屋別院
道後会館

〒790-0847 愛媛県松山市道後緑台9-43

高知別院

〒780-0842 
高知県高知市追手筋1-7-4
TEL.088-823-8390
FAX.088-823-8392

本願寺高知別院沿革

 鎌倉時代、親鸞聖人は浄土真宗を開き、お念仏を称えれば誰でも平等に阿弥陀如来によって救われるとして、一般の人びとにその教えを説き広め、多くの人々に受け入られていきました。

 そして、室町時代になると本願寺では第八代蓮如上人が、親鸞聖人にとって開かれた浄土真宗の教えをさらに広く布教し、非常に多くの人びとにお念仏の教えが受け入れられて、本願寺は全国的な教団へと発展しました。

 江戸時代までに、四国では瀬戸内海側には浄土真宗が広まっていましたが、高知県内ではわずかしか浄土真宗の寺院はありませんでした。

 そのようななか、明治政府が神仏分離令を発すると、高知県では激しい廃仏毀釈が起こり多くの寺院が壊されたり焼かれたりして、それまでにあった寺院が半数近くにまで減ってしまいました。

 このように寺院が壊されている高知県の状況に心を痛めた本願寺第21代明如上人は、高知県に開教徒を派遣して浄土真宗の布教に努めました。そして、明治13(1880)年に高知城下の追手筋に別院を建設し、ここを高知県における浄土真宗布教の拠点と定めました。
そして同15年に高知別院は、正式に政府から認可を受けました。

 ところが第二次世界大戦中の昭和20(1945)年7月4日、大空襲によって高知市内の多くの建物とともに高知別院も焼失してしまいました。その後、昭和28年頃に近くから移築したのが現在の本堂です。なお、この時同じく庫裏も南国市から移築されました。

 高知別院では、明治13年に別院の建設すると、翌年には「育児会」を発足させ、いち早く幼児教育に取り組みました。そして、昭和3(1928)年に中央幼稚園を開園しました。また明治20(1889)年には「高知真宗青年会」を設立して、広い世代に浄土真宗の教えが伝わるような活動を続けてきました。

 このようなにして高知別院は、地域の人びとと深い関係を保ちつつ、多くの方々に親しまれてきました。